そうですね、私はよくグランドや体育館で、大声を張り上げている「指導」と称する人たちを見受けることがありますが好ましくは思いません。広い場所で大声でなければ聞こえない場合もあるかも知れませんが、大声と言うよりむしろ怒声ですね。聞いていて大変に不愉快です。周囲の事を全く考えないのでしょう。様々な気遣いができず、自分の感情だけを出してしまう。回りにも相手にももっと気遣いがあったなら、大声を出したり手をあげたりなど、できるものではありません。又、腕力でなくとも罵倒することも同様の体罰です。罰則と称して「運動場を10周まわれ!」とか、「腕立て伏せ100回!」など、これも同源です。
そもそも体罰というものはどういうものなのか、今一度考えることが必要ですね。江戸期の犯罪者に対する懲罰から、戦前戦中の軍隊教育という日本の中で伸張してきた精神教育の残欠なのです。これは私的制裁、即ちリンチです。悪しき習慣ですね。
われわれスポチャンの世界では、練習前後の正座から始まり、黙想し、居住まいを正し、先人への礼、相互の礼から始まります。それら静粛と緊張の中では、怒声や体罰など、出る雰囲気ではありません。又、それぞれが居住まいを正すことにより自らもきちんとしてくるものです。本人の心根の有り様は、自ずと姿勢に表れるもので、人に怒鳴られて直るようなことではありません。恨みこそ買い、萎縮するだけではないでしょうか。人にはそれぞれの個性があり、誰でもが画一的になれるものではありません。スポーツ界や学校教育は、逃げ場を塞いだ刑務所のような矯正施設ではないのです。
私が「小太刀護身道」又、「玄関半分」に掲載した一文を記します。何かの参考に成るかも知れません。
『第21「一等の資質」 』
自分は、強く、正しく、そして多くのものを識っていて、他を常に教え導き、範たるをもって、指導するのが責任と思っている段階は、まだまだ三等の指導資質。
教えているはずの自分の方が、むしろ教えられている事の方が多い事に気づき、耳を傾ける事が出来るようになったときに、やっと二等の指導資質。
一等の資質とはむしろ、弟子の方が師の不足を補い、陰に有りても日向に有りても、優しい心をさしのべ、それを受ける事が、至極自然に出来るようになった時、はじめて師と受け入れられた時であろう。
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