スポーツチャンバラ 田邊哲人会長のインタビュー
インタビュー記事No.27
「師範・師範代について」

田邊哲人会長

今回は、師範・師範代についてお伺いします。
師範・師範代とはどういう人ですか?


  スポチャンは元々、武道の中の「護身道」から始まり、更に護身道の中の『小太刀護身道』という60センチの短い小太刀の使用方法が急激に普及したものです。
  当初私は、剣道、銃剣道、居合道等を道場にて指導していたのですが、当時の武道界は堅い一辺倒でありました。そう言う雰囲気の中では、「師弟関係とはどういうものか」、「師範、師範代とは何なのか」などとは聞くまでもない事で、敢えて教えられたり教えたりする様な事ですらありませんでした。こういう世界にはタブーがたくさんあります。師について修業している内に、師の言動、動作、立ち振る舞いを見て、自然に身に付いてくるものです。




入門するときは誓約書があるのですか?


  そうですね。指導する人がこれを理解しているはずですね。


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師弟関係とは、具体的にはどのようなことですか?


  師弟関係とは何だろうというと、師匠が弟子と認め、その弟子が入門させていただいた時からこの関係は発生します。これは、相撲では○○部屋に入門し、また、茶道でも華道でも日本舞踊でも、伝統を堅持している世界では、当然としてその道のしきたりがあります。これは、古くからの慣習であり道に学ぶ者は、そのしきたりに従うことは当然でしょう。
  武道も然り。その先生の門人となったからには当然として、師の指導方法・指導手順に従うという事は大前提であることは言うまでもありませんが、師の指導手順に合わず、また自分の意に添わなければ、自ら退やめるか、除名、あるいは破門となるでしょうね。これは自由ですから別に書面は要りません。これは別に日本が特別変わっているからではなく、世界の大方はこういう制度でしょう。弟子が師匠に意見したり、師匠の云う事を聞かないなどということは御法度なのです。

  当スポチャンもその中にいて、皆さんの手元にある允許状(允可と同義語)を見れば判るでしょう。また師の恩を常々忘れないために、免許状には恩師の名前が必ず記載されています。それが自分の師匠です。このスポチャンの世界には、ただの1人も師匠の名の入っていない免許状はありません。師匠の名前は単に書かれているわけではなく、師の恩愛、絆は永久に失うことの無きようにという事です。
  また何かの都合で師匠を変えなければならない場合もあるでしょう。例えば、転勤や学校を卒業したり移動があったりで他の地へ行ってもまた修業をしたいとするならば、その地の先生の門をたたく事もあるでしょうが、その場合でも事情を説明して入門するなど、礼儀を失しないようにするのは当然でしょう。私も師の代わりとなった事がありますが、その人たちは今も円満な活動をしています。

『護身道』草創期に私が書いた師範教育の項を一部を紹介します。


『小太刀護身道』
第11章 師範教育
  おおむね使術のみに拘泥して説明してきましたが、使術は実力行使故に、学ぶ人すなわち使う人の心持ち、心構えが大切である。
  また、何ごとも偏りはいけなく、知育、徳育、体育は均衡してあるもので、そのいずれが欠けても不足があるだろう。「徳育の欠けたる体育は粗暴な人間を創るといい、体育の伴わぬ知育は饒舌な人間を創るという」
  昨今、上下、序列をわきまえず、師、先輩を押しのけ、追い越すのを"出世"などという若干、下克上(げこくじょう)の様相を呈している自由競争社会は、一方では切磋琢磨を呼び、世界に先駆ける素晴らしい物質文明を形成し、ヒョイと手をのばせば何でも手に入れることが出来る、まことに有り難い時代を創り上げたのである。
  しかし他方、この天井知らずの営業戦争は、人も会社も負ければ明日のわが身の保証のない、さながら仁義なき戦国時代で、なかんずく、わが武道界もこの渦中にいて、ギスギスした人間関係は「感謝と奉仕」が「権利と義務」に変わり、「人情」も「過失」も同次元の"円"に換算する極めてシビアな時代となった。
  すべて「法」にかなえば、恥、外聞、男気を知らず、順序序列、長幼の礼を教えられない世代がやがて、まぎれもなく実権を握る時世となった。このさなか、「徳育」がいかに「今様」にあてはまるのか、若干異論はあるだろうが、いかなるコンピュータも扱うのは所詮人の心である故、もってその心根のあり方を今一度、あえて考えてみたいと思う。

第1条 己の恥のこと
  修業中の心得――勝敗、判定、指導、人格、愚痴、批判、不足を、云うも聞くも謹むよう。
     事左様は未熟者に限ったこと。
     戦いで負けたるはこれ己の不足。
     技量ののび悩みは己の工夫のなさ。人とのいさかいは己の徳のなさ。愚痴は己の泣き言。ことごとく己の修業不足と自から反省せよ。ゆめゆめ人様の責いうべからず。一歩譲りてかりそめに師、先輩に欠けたるところありたりとするならば、弟子はそれを黙って補いて至極当然。大そうにいうはよくよくあるまじきこと。一門のこと人から聞くも人にいうもこれすべて己の恥、しかと心すること。

  ー中略ー

第4条 破門のこと
  門人のあやまちは、その程度にもよるが、許容は二度までのこと。
  一度目は修業中のことゆえ、今だ未熟という配慮が必要であり「大心(ひろしこころ)」でみることである。これを「涵養(かんよう)」の・・・すなわち育てる精神という。
  二度目のあやまちは、さらに控えて、自らの指導手順の手落ちと、己の徳の不足を憂う「反省」の精神が必要である。
  三度目は破門にせよ。道を学ぶに足る素養無し。これを放置したるは道を外すこと。寛容と優柔不断とは一重。

ー中略ー

第8条 大道につけ
  常に大道につき物事を考えること。こざかしい小異小事を大げさに取り上げて大道を誤つが所作、これ罪悪である。小事にこだわりすぎては進む歯車まで狂わす。これが初心のうちは笑事ともいうが、年半ば過ぎたる者にありては愚かものといわざるを得まい。
  規則、法というがこれら全てたかだか人が作ったもの。己の世の暮しむきがためにあるはず。なかんずく二ツと迷いたる時はいかが大道にあるものか、しかと見抜く心を常々養うが肝要。

ー中略ー

第14条 段級位のこと
  道の中にいて道に学ぶもの、道とは歩く道すなわち順序にある。武道の順序にある段級とは、強さの表現ではない。相当の年月修行に正対した証しである。なかんずく、我慢強さという人間としての強さの称である。武道の究極の目的は、生涯完成にある。修業至りて免許をされた段級証は、師と恩愛の絆である。終生礼を失する事無きよう精進されたい。

ー後略ー

  スポーツというと楽しみという雰囲気がありますが、こういう身を律する世界を好きで入門してくる人もあまたいるので、異論もあろうと思いますが、敢えて掲載してみました。




有り難うございました。
次回のインタビューもお楽しみに!!

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