スポーツチャンバラ 田邊哲人会長のインタビュー
インタビュー記事No.9 (スポチャンの歴史)
「 小太刀護身道からスポチャンへ 」

田邊哲人会長

前回に引き続き、スポチャンのルーツをお聞きしましょう。
小太刀護身道の頃の活動はどのようだったのでしょうか?


  前回もお話ししましたが、現在私が社長をしています国際警備蠅如当時は長兄が社長、私が常務取締役でした。そこでガードマン教育と言うことで誠心館道場を作り、その会社の新入社員やアルバイトの面接と教育をしていましたが、気の早い私は面接をするかしないかの内に、「よし、3Fの道場に来い!」と言って戸惑っている全員を一列に並べ、面を付け棒を持たせて「どこからでも打ってこい!私から1本取ったら入社決定!」「一本勝負!」初めはそんな様でした。柔道経験者、中には相撲の元十両やボクシングのウェルター級学生チャンピオンなどもいましたが、私も若かったので別段なんとも思わず平気でした。
  そういう間に実感したことは、いかに体が大きかろうが、いかに格闘技をやっていようが、それらのルールの中で育成された者はそのルールの中でしか戦うことしか出来なくなっていたという事に気がつきました。モノ(刃物)を持たれたりすると、そのモノに神経を使い瞬間的に戸惑うのですね。そしてどうして良いか判らないパニック状態になってしまう。しかし「実戦にはルールはない」これが原則ですので、口で教えるよりも座学で何十時間、何百時間やろうとも、一回やられた方がより即、効果がある事を実感しました。詭弁を弄し、いかに雄弁に語っても1回の実戦の方がより効果的と言うことですね。

  昭和45,6年のガードマンは、死傷者が出るような紛争や暴力行為の真っ直中へも送り込まれましたので臨戦の心構えが必要でした。まぁ当時の道場の稽古は、試合をしても試合だか喧嘩だかよく判らないというような状態でしたが。

  毎日そういう稽古をやっていて、この時期は大変多くの自分稽古ができました。打たれれば当時の袋竹刀では相当痛いしアザだらけになりました。そしてそのアザの中から自分自身が自分の中で納得していくものがありました。




具体的にはどういうものですか?


  やはり当初は私も若かったので勝ちたいし、勝つために先に打ちたいわけですから、ディフェンスよりオフェンスが先となりました。従って毎日竹刀の跡のアザだらけとなり、そしてあまりにも痛すぎてディフェンスの必要性が身に染みたわけです。冬の寒い道場で、素足の踝を思いっきり打たれると、もうその痛さと悔しさで涙が出ました。 そしてフットワークで避ける見切り技、見切れない時には仕方なく囲い技、このようなディフェンス技をその痛みの中から体得しました。そして徐々に相手の痛みにも気付きました。オフェンスでは上からだけ打つのではなく横から打つ掬打ち、扇打ちの横面、回打ちの小手や面打ち。このような短い物を鋭く、そして長い物を巧みに使う、そういう技術も日々の稽古の中で徐々に習得していきました。それらによって相手を良く観察できる様になり、精神的にゆとりができてきました。そうするとこの護身道がだんだん面白く楽しくなってきたわけですね。




「護身道」という小冊子ができ、「全日本護身道連盟」が設立されますね。


  「護身道」という小冊子は自分の覚書のようなものです。教える時の手順のようなものを書き記したもので、あまり参考にはなりません。

  当本部道場(国際誠心館道場)では夕方からは近所の少年達に水・土曜日は剣道、火曜日は銃剣道、木曜日は居合道と言うように武道も教えていました。護身道の当初は、大勢いた警備会社の社員達を対象として毎月の様に小さなトロフィーを用意して競技会の様なものを開いていましたが、その内、道場の剣道や銃剣道の弟子等も加わるようになり、時々錬成大会を開催しました。そして賞状やトロフィーを正式に出す団体として「全日本護身道連盟」を設立したわけです。
  よく「第1回大会はいつ頃ですか」と聞かれますが、草創期にはいつのどの大会が正式に第1回大会かと言うようなことはもう憶えていませんね。私の教えている者ばかりでしたから大した意味がないと思っていましたし。当時、表彰状もその都度出していましたから第1回と書かれているものも、回数が入っていないモノも含めると30回くらい開催したかもしれない。まだ私自身が自分稽古の為に、多くの人と剣を交える必要があったのでやっていたという感じが強かったものですから。

  記録上では昭和48年に護身道の創立結成です。
  その頃私は、このような武道経験と小太刀護身術の指導者としての実績が認められ、昭和49年頃に神奈川県から選抜されて全国警備業協会連合会(現(社)全国警備業協会)の教育担当者の養成機関に推薦され、合宿や厳しい試験を重ねて受けていました。その研修に参加した人は当初、神奈川県だけでも数十名ぐらいはいたのではないかなぁ。それがどんどん試験や訓練で振るい落とされ、最後は2,3名になりました。神奈川県としても県の代表としなければならなかったのでしょう、この特錬は大変厳しいものでした。当時の講師はほぼ全員が元警察官(現職もいましたが)の猛者ですからね、素晴らしい先生方が集まっていました。私はまだ30代前半でしたが、小太刀護身道という特技があり、基本動作の姿勢や気合いを体得していて、それで随分と得をしました。警戒棒の操作要領にも中段打ちや下段打ちがありますが、柔道の先生などは自分の苦手な所を「おーい田邊君、基本動作の見本を見せてやってくれ」などと良く声を掛けられ重宝がられました。その結果この厳しい特錬についていくことができたのでしょう。その時先生方にいろいろと手ほどきをして頂きました。
  そのような研修を重ね、昭和53年に正式に全国警備業協会連合会より教育者担当者として認定され、全国の教育担当者の今度は養成指導を担当するようになりました。そして昭和55年に社団法人 全国警備業協会となり、引き続き資格継続を受け、昭和58年には神奈川県公安委員会からも警備員指導教育責任者講習会の講師を委嘱されました。これは警備員を指導する指導者を資格認定する講習会のことです。こういった警備員教育担当者の指導教育を約30年担当し、その功績によりお陰様で今年、警察庁長官賞を賜りました。

賞状1 賞状2 賞状3 賞状4 関連記事

  その間、「全日本護身道連盟」としても大会を開催していました。手元に残っている当時のプログラムを参考にすると、昭和56年に第1回小太刀護身道関東親善大会。これが第1回という事になっていますが、これはプログラムを作成したのでそうなっているだけで、私的には第1回とは思っていませんけれどね。なぜなら大会はその前からずっと開催していましたから。そして昭和58年6月5日に第3回全日本護身道連盟主催 関東地区親善小太刀護身道大会を静岡県富士市で開催した時には、プログラムの第1回と書いてある所を第3回と修正しています。昭和59年12月9日には第5回全日本護身道連盟主催 関東地区小太刀大会、昭和60年7月7日に第6回小太刀護身道大会、同年12月22日に第7回小太刀護身道大会、会報も昭和60年に第1号が発行されました。これら対外試合は国会議員や市議会議員、地元の名士に大会会長をお願いして、私は運営・審判にまわり、段取り万端を行っていました。またその頃は大会を年に2、3回開催したり全く開催しなかったりしましたね。その理由は、まだ我々の団体が無名でしたので大会を開催する会場の確保が思うようにできなかったという事も理由のひとつです。会場が取れなくてクリスマスやお盆、年の暮れなどに大会を開催したこともありました。さすがにクリスマスでの開催が続いた時には、アメリカの先生から「クリスマスだけは避けて下さい。」と言われましたね。

  この頃は既に、アメリカ・フランス・オーストラリアから海外選手の参加がありましたが、大会としては「全日本選手権大会」として開催していました。しかし第12,3回頃から、「全日本選手権大会ではなく是非、世界選手権大会として開催して欲しい」という要望が海外選手からあり、1990年第16回大会より世界大会として開催することになったのです。また1年間に大きな大会を複数回開催することは容易なことではないので、それ以降数年間は全日本選手権大会と世界大会とを兼ねる形になり、世界チャンピオンであり全日本チャンピオンであるという変則的な形になってしましました。しかしその内、やはり国内からも世界大会とは別に全日本大会の開催の声が上がり、世界大会と併合していた期間の回数も通算され、第20回全日本選手権大会として1994年に独立して開催されるようになりました。またそれまではエイジレスという観点から幼年から少年少女らも区別せずに全日本大会、世界大会に参加していましたが、出場選手が多すぎて定時に終了できない、また自分の生徒の試合が終了しないと先生が自分の競技に出場できない等、運営に支障を来すようになり、少年少女大会を別に開催せざる負えなくなり、これも今までの大会を通算して第20回少年少女大会を1994年に開催しました。以後今年でこれら主要大会は、第32回大会となっています。




「スポーツチャンバラ」となったのはいつ頃なのですか?


  小太刀で「小太刀護身道」、長剣で「護身剣道」という名称を使っていましたが、二刀や槍・棒などの異種が入ってきてから、ルール上、護身道のキャパシティをオーバーしたようです。そして「先生、刃筋が立っていないので1本は取りません」「気合いが小さいから1本取りません」などと旧態依然とした論理を、私が面倒くさくなったのですね。「これはチャンバラごっこだ!」「どこに当たっても良いだろう。打たれる方がいけない。」と。
  子供の頃、神社の境内や野山を飛び回って棒切れを持って遊びほうけたチャンバラごっこ、これが私の原点だったのでしょう。この頃に私自身から「スポーツチャンバラ」と言うようになりました。しかし「スポーツチャンバラ」と言ったら弟子が半分に減りました。まだ日本人の中には"武道"というものに特別な精神養成と言うものを尊ぶ雰囲気がありましたから、仕方がなかったのでしょう。「よし、それならこのスポーツをやがてメジャーにしてやろう」と決心しました。
  またこのスポチャンを「世界剣術」と言ったところ、海外で「Global Fencing 」と訳されてしまったことがありました。フェンシングと訳されてはそれは全く異なりますので、それ以降は尚一層「スポーツチャンバラ」と強調するようになりました。

  1990年の第16回大会は第1回統一世界大会ですが、白井勝先生が槍で、二刀では槍で優勝した横山久道君も出場しました。この頃は寛政御前試合をもじって、平成御前試合とか何とか言うような形で公開競技としましたね。

  とにかく戦前の武道の殿堂「大日本武徳会」の大先生より、剣道・居合道・槍道等古武道を教わり、また第2次世界大戦の陸軍戸山学校の武道教官に銃剣術・短剣術・抜刀術を教わり、そして戦後の自衛隊のスポーツ銃剣道・短剣道・剣道、更に警察の武道、即ち剣道・逮捕術・護身術を教わり、警備業界の護身術、とりわけ警戒棒操作要領等を長い間指導され、また指導してきました。日本国が戦前戦後を通じ国策として推進してきた武道、その一端を曲がりなりにもかじり、その集約として即ち真髄がこのスポーツチャンバラにおける私の指導手順の根幹となって内包されているのかもしれません。

  このスポチャンこと世界剣術が、ヨーロッパのレピア(細長く針のように鋭い剣を片手での刺突)、中近東やアジア地域の湾刀、サーベル(細長く、そりがある)、他にクックル、青竜刀、ラムオダ・・・果たしてそれらの剣術にいかに通用するか、現在確認中といったところです。



有り難うございました!
次回のインタビューもお楽しみに!

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